先輩医師インタビュー 分野 救命救急科
2021年03月09日

目の前の生命を救うため、医療現場での教育に力を注ぐ。

新潟市民病院 救急科 副センター長吉田暁 先生埼玉県出身・平成17年 新潟大学医学部卒業

救急医を目指した理由を教えてください。

学生時代に、へき地で医療に尽くすことこそ輝く医師の姿だ、と憧れたのがきっかけです。その思いが高まり、6年生では、長野県の佐久総合病院の先生に直談判し、学校を1週間休んで現地へ。ところが、行ってみると、おじいちゃん、おばあちゃんと畑仕事をし、一緒に生活をするのがメインで、その間に往診するという感じ。医療とは病気ではなく、生活全体、つまり「人」を診るものなのだと思うようになりました。

この時点ではまだ救急医を目指そうとは思っていませんでした。その後、沖縄での研修で救急医になりたい気持ちが生まれました。

沖縄県の病院で、合計4年間を過ごされていますね。

これも単純な発想で(笑)、へき地といえば離島、それなら沖縄だと。実は、妻が沖縄出身だというのも理由のひとつではありました。研修の間に、北大東島の診療所で忘れられない経験をしました。嵐でヘリが飛べない夜に、住民が心筋梗塞を発症したんです。心電図モニターもシリンジポンプもない診療所で、そこの医師と手動でわずかずつ薬を入れながら、朝を待ちました。夜が明けて嵐が止み、ヘリコプターで本島へ搬送。じりじりと待っていると、患者さん本人から、回復したと電話が入りました。うれしかったですね。この時、自分の力がないから助けられないという状況を絶対に作ってはいけない、目の前にいる患者さんを助ける力を身に付けるのだという思いを新たにしました。まず救急医として修行を積もうと決意した瞬間でした。

現在は新潟市民病院に勤務されているのですね。どんな病院ですか。

新潟市民病院の救急科は、新潟医療圏において緊急度や重症度の高い患者さんの救命と、後遺症の軽減をミッションとして診療に努めています。私たち救急科は、患者の全体状況を見極め、治療はどの順序で行うか、どのタイミングでどこまで行うかなど、治療の流れを決めて各診療科に伝えます。そのために、日頃から院内の先生方と連携を取り、協力体制を築いて、どのような状況にも対応できるよう準備をしています。いわば治療のハブ、オーケストラでいえば多くのプロフェッショナルの技術を活かすべく、目を配り、指示をする指揮者のようなものではないかと思っています。

救急医としての勤務と並行し、岐阜大学大学院にも通学中とか?

2020年4月、岐阜大が日本で初めて医療者教育修士養成課程をスタートさせ、私は1期生として進学しました。とはいえ、コロナ禍で年6回予定だったスクーリングはWEB授業に切り替わり、新潟にいながら学んでいます。医療者教育学修士(MHPE)とは、日本では耳慣れない資格ですが、世界の医療現場ではスタンダード。若手医療者の教育に必要な理論や技量を身に付けた教育のプロを意味します。

これまでも後輩たちに指導を行ってきましたが、「これでいいのか、自己流ではないか」と思うこともあり、理論を知ってより俯瞰的に、系統立てた教育をしたいと思っていたので、この資格が日本で取れるようになったのは天恵。ここで得たことを現場に還元するため頑張ろうと思います。

これからの目標について教えてください。

新潟市民病院は創立以来、研修医を積極的に受け入れ、教育に力を入れてきました。その風土は脈々と受け継がれ、現在に至っています。だから、私が例のない資格取得のために学びたいといった時にも上司も含め周囲のスタッフは快く応援してくれました。そうした風土と、幅広い症例を経験できる環境、また、診療科の垣根を越えてタッグを組み、命と向き合う姿勢が根付いています。今後も生命の最後の砦である救急科で、知識や技量のブラッシュアップに努めると同時に、若い人たちの教育にも力を注いでいきたいと思います。

(所属等は執筆時現在です。)